外苑前いつも通り


あずささんと仕事を終えて事務所に戻ると、結構な時間になっていた。
人気のない事務所の明かりをつけて、片づけをする。
「残っていることもないですから、早く上がりましょう」
「そうですね〜。あら、プロデューサーさん、明日の予定ってどうなっていましたっけ?」
「明日は午後から雑誌の取材がありますよ。その後はレコーディングです」
「そうですか〜ふふっ、すみません、スケジュールまで管理してもらって」
「いえいえ。車を呼びますので少し待っていてください」
「はい」
なじみの個人タクシーの番号を呼ぶ。
口堅く、運転技術も確かなので、半分専用車として契約させてもらっている。
最近はAランクアイドルとしてひっぱりだこのあずささんの送迎に重宝していた。
5分で来てくれることになったので、事務所のビル下の車止めで待つことにする。
二人でエレベーターを降り、地下の車止めに向かう。
なぜかエレベーターの時からあずささんがそわそわとせわしない。
「…どうか、したんですか?」
あずささんはなんで気づいたのかというような驚きようでこちらを見た。
…みればわかりますって。
「はい、あのう…プロデューサーさんも、これから帰るんですよね」
「ええ、あずささんを見送った後、帰りますよ」
さすがに最近はタクシー代を浮かすために事務所に泊まらなくてもいいくらいにはなっていた。
それもこれもあずささんおおかげだが。
「でも、プロデューサーさんのお家は、そのう、結構時間がかかるのでしょう?」
「え?いや、まあ…車で1時間くらいですかね」
「それなら」
あずささんは、胸元に手を合わせて、しばらく溜めを作った後、思い切るようにして口を開いた。
「今日は、家に泊まっていきませんか?」

シルバーのクラウンアスリートが静かにマンションの地下駐車場に滑り込んでいった。
事務所の高層ビルに勝るとも劣らない車止めに、まずは長身の女性が降りる。
サングラスに帽子を目深に被り表情はうかがえない。
…その後に一人のスーツ姿の男性が続く。
身のこなしは軽快だが、どこか緊張しているような雰囲気がある。

三浦あずさとプロデューサーである。
万が一、あずさが男性と一緒にマンションに出入りしているところなどを悪徳記者にでもスクープされたらコトである。
そういう危険を少なくするために地下駐車場があるマンションを選んだのだが、まさか自分がここから入ることになるとは思わなかった。
…イヤ別に…俺はオトコとして入るわけじゃないし。
仕事で終電を逃した社会人が同僚の家に泊めてもらうだけ…。
泊めてもらうだけ…。
「それはさすがに無理があるな…」
「? 何かおっしゃいましたか?プロデューサーさん」
「い、いやなんでもないです」
あずささんは妙に嬉しそうだ。
駐車場からの専用エレベーターで上がる。
来客とかちあわないようプライバシーに配慮されたエレベーターだ。

あずささんが部屋のロックを解除する。
「さあ、どうぞ、プロデューサーさん」
「はい…では、お邪魔します」
「……」
と、なんだかあずささんが珍しく頬を膨らませている。
「ど、どうしたんですか?」
「いえ。帰ってきたときは別の挨拶があると思うのですけれど」
「あ?えーと。“ただいま”?」
「はい!“お帰りなさい”プロデューサーさん!」
あずささんは、心の底からの笑顔で、そう答えてくれた。

この部屋を訪れるのは、三度目だ。
それぞれ節目のときに部屋でお祝いをしたり、今後について話し合ってきたが、こんな夜遅くに部屋に入り、ましてや泊まったりするのは初めてだ。
リビングに入ると、ごく自然にあずささんに背後を取られた。
「プロデューサーさん、上着、ハンガーにかけますからどうぞ」
「あ、はい」
肩まで脱ぐとあずささんが途中で上着を脱がしてくれた。
…なんだか、ものすごく、恥ずかしい。
「ふふっ、ネクタイも外して、楽にしていてくださいね。今お風呂沸かしますので」
今度はさっと正面に回られるとしゅるっとネクタイを外された。
…俺はさっきから棒立ちしているだけである。
あずささんに促されるままソファに腰を下ろす。
彼女は俺の上着とネクタイをハンガーにかけて別室に持っていってしまった。

所在なげにソファに座っているとあずささんがトレイを手に戻ってきた。
…見れば俺が好きなオールドクロウが乗っているじゃないか。
「これですか?確か、前に好きだとおっしゃっていたから…」
「そうですけど…よく覚えていましたね、これ」
「ふふっ、大切なことは覚えがいいんですよ?」
安いといえばそれまでだが、昔から好んで飲んでいたバーボンだ。
瓶は未開封なので…なんというか、俺のために買っておいたのだろうか。
グラスは二つあった。
「えーと、あずささん、飲むんですか?」
むう、とあずささんは口を尖らせた。飲みます、とはっきり答えられてしまった。
う…こんな表情、見たことないかも…。
「飲み方はどうします?水割りで飲みますか?」
「えっと…あの…実は、どういう飲み方がいいのかわからないのですけれど」
「そうですね…俺はストレートで飲みますが、最初は水割りとかで飲んだ方がいいでしょう」
「プロデューサーさんは、ストレートで飲むんですか?」
俺がうなずくと、あずささんは瓶を開けてグラスにとぽとぽとぽとバーボンを注いだ。
「ああ…これくらいで」
グラスに半分くらい入れられそうになったのでやさしく止める。
「あ、はい」
あずささんは手を戻して、今度は自分のグラスに、同じようにバーボンを注いだ。
「……」
思わず絶句。
「ふふっ、プロデューサーさんと同じお酒を飲むんです」
「…わ、わかりました。では、ゆっくり。ゆっくりと。ちびちびと飲みましょう。そういう飲み方のお酒ですから」
「はい」
かちりとグラスを合わせる。
お手本のようにゆっくりとグラスを傾け、含むように飲む。
じっと見つめていたあずささんも俺にならってグラスを傾ける。
しばらく、あずささんの表情が色々とかわるのは見ものだった。
「どうですか」
俺は半分面白がってあずささんに訊ねる。
「…はい、あのう…とっても香りがつよくて…喉が…」
「そうですね。ちょっと強いお酒なので…オレンジジュースってあります?」
「ジュースですか?はい、ちょっと待っててください」
やや不安定気味に立ち上がると、やがてパックのオレンジジュースを抱えて持ってきてくれた。
俺はあずささんのグラスをもらって中身の大部分を俺のグラスに移し変えた後、オレンジジュースを大目に注ぐ。
「こういった飲み方もあるんですよ」
オレンジジュースで薄まったことを目で確認したせいか、あずささんはちょっと大胆にこくっと飲んだ。
「あっ、とってもおいしいです!」
「そうですか、よかった」
二人の間にゆったりとした時が流れる。
ただ何もせず。前に部屋で過ごしたようにお互いを見ては微笑み、手元のグラスの液体を少しずつ舐めていく。
とても優雅な時間。

台所で電子音が鳴った。
「あら、お風呂が沸いたみたいですね」
あずささんが気持ちよさそうに立ち上がる。
「それじゃあ、プロデューサーさん、お先にどうぞ」
「えっ、あ、いや…俺が先でいいんですか?」
「はい、一番風呂は家長の役目ですよ〜」
…なにか突拍子もないことを言われたような気がするが、背中を押されるままに洗面所を抜けて脱衣所に向かう。
「今着ている下着はそこのカゴにいれておいてくださいね。で、替えはこっちにあります。あとこっちはパジャマとタオルがありますから〜」
「…………」
な、なんだ。
なんなんだ、これは。
なんでこんなに、その…モノがそろっているんだ。
シャッとカーテンが引かれたので、なんとなく服を脱いで風呂場に入る。
かけ湯をして湯船に浸かると、今日の疲れがじわ〜っと溶け出していくのがわかった。
(足をおもいきり伸ばせるなんて、すごい湯船だな…)
正確には湯船には全身丸々伸びてもすっぽりと収まるだろう。
って、そうじゃなかった。
頭に引っかかっていること。
なんであんなに…男物がそろっているんだろう。
(もしかして、既に彼氏…というか、運命の人がいるんだろうか)
そう考えた瞬間、一瞬で胸元が冷えた。
熱いお湯の感覚も忘れるくらいの冷たさだった。
「失礼しまーす」
脱衣所から扉越しにあずささんに声をかけられた。
「おズボンも上着と一緒にハンガーにかけておきますね」
「…は、はい。すみません」
反射的に返事をして、それからなぜだかとてもむなしい気持ちになる。
(さっさと出よう)
体と頭を洗って、浴室を出た。
…タオルも替えの下着も新品だった。
なぜかパジャマまで用意されているとは思わなかったし、気づいたら洗面台には完全にもう一名用のl歯磨きセットが用意されている。
「……」
つまり、そいつはもう、ここに泊まっているということか。
最初に浮かれていた分、反動で惨めな気分になってきた。

パジャマに着替えてリビングに戻ると、あずささんはソファでグラスを片手に待っていた。
どちらかというと、ぽーっとしているみたいだ。大丈夫かな。
「お風呂、お先いただきました。…あずささんも早めにお風呂入って、休んだほうがいいですよ」
「あ、はい…」
バーボンがいい感じに効いてきてしまったのだろうか。とろんと眠そうな顔をしている。
飲ませたのは失敗だったかもしれない。お酒が入った時点で風呂に入れるのは危険だ。
特にあずささんの場合は…何もなくても死にかけた?らしい過去をもつらしいし…。
「大丈夫ですか?なんなら、お風呂は明日にしますか?」
声をかけると、ぱちりと目の焦点があった。
「い、いいえ。今日、今から入ります〜。」
ふらふらと立ち上がると脱衣所に向かっていった。
さっきの身のこなしとはちがう。
…やはり心配だが、待つしかない。

改めてソファに座りなおす。
久しぶりに部屋でオールドクロウなどを飲むと、いろいろなことを考えてしまう。
この部屋は広い。調度も設えもよい、とても居心地のいい空間だ。
さすがあずささんが見立てただけのことはある。
だが…やはり…広い。広すぎるくらいだ。
ふと、胸ポケの携帯を開いた。
あずささんから送られたメールの履歴を確認する。
夜、彼女はここで一人でメールを打っているのだろうか。

……。
30分経った。
長い。
女性のお風呂は長いとは理解しているつもりだけれど、やっぱり、ちょっと長いのではないかと思ってしまう。
すでに浴室からは出て、髪を乾かしているのであればまだしも、そんな気配もなさそうだ。
「……」
なんとなく、あずささんがドライヤーを髪に当てている絵を想像すると、いろいろとよからぬ感じになってきたので頭を振って妄想を払った。

――がたがたがたっ

洗面台で大き目の物音がした。
「あずささん?」
洗面所の、カーテンの向かい側まで行って声をかける。
「は、はい、すみません、ちょっと…」
「大丈夫ですか?」
「ちょっと手を滑らせてしまって…」
「あの、入っても大丈夫ですか?」
「えっ、あ、はい、もう大丈夫です」
カーテンをくぐるようにして洗面所に入ると、パジャマ姿のあずささんが洗面台に手をついていた。
「だ、大丈夫なんですか?」
慌てて駆け寄って、体を支える。
湯上りの暖かい体温を身近に感じる。
あずささんは、くたっと俺のほうに体を預けてきた。
「やっぱり、ちょっとお湯にあたっちゃったみたいです…」
力なく笑う。
濡れた髪が俺の頬から首筋にまでぴっとりと当たり、シャンプーの香りが俺自身をくすぐる。
「すみませんでした。ほんと、お酒はちょびっとにするだけでよかったですね。…さあ、ベッドで休みましょう」
長身なのに体重を感じさせない不思議なあずささんの腰元に手をやり、後ろから体を支えて洗面所を出る。
寝室は、クローゼットとベッド、そしてナイトテーブルがあるだけの本当に寝室のためだけの部屋だった。
つい自分の部屋と比較してしまい苦笑する。

ちょっとだけ崩れたかたちでメイクされているベッドの布団をあげて、あずささんを横にする。
一瞬お姫様だっこのような形になり、あずささんと目が合う。
あずささんは何も言わないが、この空間は、なんとなく…。

落ち着け。
俺の職業倫理観をフル動員。
ついでに、あずささんの運命の男とやらの存在を強く意識することで、自分の中の“何か”を火消しにかかる。
布団をかぶせると、あずささんは安心したようなため息をして、目をつむった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
声をかけると、あずささんは目をつむったまま、何事か言いかけて、それは言葉にならずやがて静かな寝息になってしまった。
俺はそっと寝室を出て、リビングに戻る。
サイドテーブルの酒をキッチンに持っていって片付けると、3人がけのソファに失礼して横にならせてもらった。
…かけるものはないが、まあ、空調も利いているし、風邪はひかないだろう。
さすが高級品、ベッドとしての機能も一流だ…。
睡魔に任せて、俺も眠ることにした。


――――――。
 ―――――――。
  ――――――――。
胸騒ぎがして、目が覚めた。
サイドテーブルにおいてある時計を確認すると午前2時を指していた。
眠ってから1時間程度の時間しか経っていない。
体を起こす。
別にこの環境で眠れなかったわけではない。
ここよりもっと薄っぺらなソファで寝ることなどザラである.
そのようなところと違うのは、圧倒的に部屋の防音ができていることか。
高層のマンションということもあるが、耳鳴りがするほどの静寂さだ。
それなのに、なにか、違和感を感じる。

なにか、すすり泣くような声。
それは、あずささんの寝室から聞こえていた。
軽くノックをして、反応をうかがう。
返事はない。
ゆっくりとグリップ式のノブを回して、寝室に入る。
「……っ……っ」
「あずささん?」
声をかけるが、返事は返してくれない。
分厚い遮光カーテンのため、寝室はほぼ真っ暗だ。
枕元まで近づいて、ひざをつく形であずささんの顔を覗き込んだ。
泣いている。眠りながら、あずささんは泣いているのだ。
ああ、前にもそんなことがあったっけ…。

どうすべきだろう。
運命の人、とやらが、今すぐ駆けつけてくればいいのに。
あっ、だけどそんなことしたらこの状況は修羅場になるか。
…いや、そんなことを考えていても仕方ない。
俺は布団に手をかけているあずささんの手をとり、両手で包むように握った。
「…………っ」
眠ったままのあずささんが俺の手をきゅっと握り返してくる。
細く薄くしなやかな手を、さするように握っていると、あずささんの呼吸が自然と収まってくるように感じた。
「…プロデューサー…さん」
「ええ、起こしちゃいましたか、すみません」
あずささんはふるふると首を振ると、取っている手を握り返してきた。
「さっきまですごく、嫌な夢を見ていて。それが急に安心して、びっくりしたら目が覚めちゃいました…」
ふふ、ふふふと、お互いに笑いがこぼれる。
互いの手を握りながら、感触を、存在を確かめ合う。
「プロデューサーさん、あの、ひとつ、わたしのわがままを聞いてもらってもいいですか?」
「…はい、いいですよ」
「ここは、とても広いんです。ちょっと私では、広すぎるくらい…。だから、今はプロデューサーさんと、ここに一緒に」
「……でも、それは」
あずささんの大事な人を、裏切ってしまうことになるんじゃないか。
そう、言いかけた。
言いかけて、やめた。
運命の人、そのひとが現にいて、あずささんと生活をして、今日俺が着ている寝巻を普段着ているとしても。
そいつが今ここにいなくて、あずささんの涙を拭くことができないなら何の価値がある?
だから、俺は。
「いいですよ。俺はここにいます。朝まで、一緒に」
「はい…」
あずささんは握っている手を離さずに、空いている方の手で布団を開く。
キングサイズゆえ、そう、間違いは起きないだろう。
なるべく、端っこに収まるように、体を滑り込ませる。
…いまさらながら、枕が二つ分あることに気がついた。

枕に頭をのせ、あずささんと手をつなぐ。
今夜は眠らないことにしよう。
あずささんがもしまた寂しさに泣くことがあったら、すぐ涙を拭けるように。
…なんて、格好つけていたはずなのに。
再び寝息を立てたあずささんの吐息が、なんだか、こう近くに感じられてきて。
体温までもがって、これ本当にキングサイズのベッドだよな!セミダブルとかじゃないよな!
「…あの…」
体の右半分を、あずささんに絡め取られていた。
だけれども、それはとても、とても落ち着く人のぬくもり。
人間の仕組みとして、男と女とふたりで揃って眠ることが本当の姿であると思うほどに。
自然な形で受け入れられる。
俺の緊張もだんだんと溶けていく。
あずささんの暖かさに再度睡魔が拡がっていく。
「――――」
あずささんが何事か呟いた。
一瞬聞き取って、いや聞き間違いだと思って、耳をあずささんの口元に持っていく。
「――――」
それは、俺の、名前。
その名前を聞きながら、不可思議な眠りに落ちていった。


――俺はこれが何であるか知っている。
とても居心地がよくて、安心できて、幸せになれるものだ。
日頃の緊張から、本当の俺に回帰させてくれる場所でもある。

それは人肌だ。
俺はそれが何であるかを知っている。

俺は女の胸元にうずまっているのであろう。見てはいないが、認識している。
相手の呼吸と、己の呼吸を合わせて、人肌のぬくもりの中でまどろむこと。
それはとても幸せな時間であると知っている。

軽く顔を左右に振ると、やわらかい弾力を俺に返してくれる。
…楽しい。
子供のようだが、それが楽しい。やさしく、ゆっくりと顔を振って、繰り返し胸の反発を楽しむ。
「……」
相手が反応したようだ。
いたずらをたしなめるように、俺の頭が抱え込まれる。
おとなしく眠りなさいとばかりに俺の頭を優しく撫でられる。

ああ、そうだ。そうするのがいいだろう。
まだ、俺は疲れている。今日はここに。
俺が収まるべきところに収まって、俺は俺自身を取り戻すのだ。
手を回し、相手の腰もとから寝巻きの中に手をいれ、ゆっくりと背中をさする。
お互いに抱き合う形で、俺たちは再び眠りに落ちる…。



「あ、あれっ?」
何か、とんでもない夢を見てたことに驚いて跳ね起きた。
大きくマットがびよんとはねて、ここが自宅でないことは気づいたが、どこであるのか一瞬記憶の整合性が取れず、時間と空間を把握することができなかった。
大きな部屋、寝室に俺が一人。
「…あ、あー」
ようやっと、脳の認識のピントが合う。
ここは、あずささんの家の、あずささんの部屋。
結局俺はすっかり寝入ってしまったわけであった。
(なんだかえらい夢まで見てしまったが…それは役得というべきか)
部屋を見渡したが、あずささんは見当たらなかった。
スリッパをつっかけて、リビング経由でダイニングキッチンに向かうと、物音がしている。
「あずささん」
「あ、おはようございます、プロデューサーさん」
あずささんは、半分顔をこちらに向けると笑顔で挨拶を返してきた。
こちらもおはようと返事する。
テーブルにはスライスされたフランスパンに、クリームチーズや野菜のディップが載せられている。
「今、卵を炒っているので、もう少し待っていてくださいね、プロデューサーさん」
「あ、あ、はい」
あずささんは上機嫌でフライパンを動かしている。
無駄のない動きでお皿にスクランブルエッグ…すごい量だな…をテーブルに載せると、エプロンを解いて俺と向かい合わせに座った。
「朝食までつくっていただいて、すみません」
「いえ…あのう、量はこのくらいでよかったでしょうか?少なすぎませんか?」
むしろこちらが心配されてしまった。
「これくらいがちょうどいいですよ。…では、感謝して…いただきます」
「はい、いただきます」
ディップを載せるフランスパンも、スクランブルエッグも、ごく普通においしかった。
おいしいというか、自分の舌によくなじむ味。いつも、毎日食べていけるような、日常のおいしさ。
「相変わらず、料理をするのに時間がかかるので、前からディップをつくり置いておいて、よかったですー」
そんな会話をしながら、落ち着いた雰囲気で味わって食べることができた。
むしろこの落ち着き具合が不思議であった。
あずささんの手料理をご馳走になっているのであれば、もう少し、ドキドキしてもいいものだと思うのだけれども。
これではまるで…。
「あの…」
「はい」
「あずささん、早く起こさせちゃったんですね。すみませんでした」
「それは…そのう…プロデューサーさんが…あんまり…するから…」
「……?」
どんどん声がか細くなり、最後は聞こえなくなってしまう。

おいしく朝食をいただき、コーヒーまで入れてもらったりすると、なんだかいっぱしの家庭持ちみたいな錯角を覚えてしまう。
何気なく時計を見ると、8時を過ぎていた。
「っ、と、あずささん、そろそろ俺、事務所にいかないとマズいです」
「そ、そうなんですか?やっぱり、とてもお早いんですね…」
では…とドレスルームにあったらしい俺の仕事着一式を持ってきてくれる。
「あの…洗濯物とかは…」
「それは、こちらで済ませておきます。プロデューサーさんは、こちらでお着替えをしてくださいね」
(Aランクアイドルに洗濯をさせてしまうプロデューサーって…)
仕方なく洗面所でさっとスーツに着替える。
リビングに戻り、携帯でタクシーを呼ぶと15分くらいかかるとのことだった。
「プロデューサーさん」
「はい」
あずささんが、ずすいっと身近に寄ってくる。
にっこりと笑われると、
「ネクタイが曲がっていますって、一度やってみたいと思いました〜」
そう言って普段からゆるめにしているネクタイをきゅきゅっと締められてしまう。
それがなんとも嬉しくて、でも恥ずかしい。
正直、運命の人に嫉妬を感じてしまう。
だが、そんなことを口にするのは俺もプライドが許さない。
「パジャマ、ありがとうございました。借りちゃって、すみませんでした」
「いいえ〜。プロデューサーさんのサイズに合わせていたつもりだったのですが、大きかったり、小さかったりしませんでしたか?」
ぴきり、と何かにひびが入った。…ようだった。
あれ?
俺にサイズを合わせた?
なにか、前提条件が違ってきているような、気が、している。
なんだろう。
「…い、いや、サイズは合っていました。大丈夫でしたよ」
「そうですか〜。おそろいにした甲斐がありました〜。でも、一度だけ袖を通しておしまいというのは悲しいので…また、来てくださいね」
あれ?
あれれ?

何かが、違っている。
何かの条件が違っている。
混乱に拍車をかけるように胸の携帯が鳴った。
車が地下に来た連絡だった。
俺が落ち着いて考える暇を与えてくれない。
「そ、それじゃあ、あずささん、また午後に事務所で」
「あ」
靴をつっかけて出て行こうとすると、追いかけてきたあずささんに腕を掴まれた。
「ダメーです。ちゃんと言ってください」
「あ、ああ?…あ」
一瞬、何のことかわからず混乱する。
昨日の帰りからの流れを思い出し、あずささんに向き直って、スーツの襟を正す。
「行ってきます。あずささん。また午後事務所でお待ちしてます」
「はい、行ってらっしゃい、プロデューサーさん。お仕事、頑張ってくださいね」
笑顔のあずささんに見送られて家を出る。

地下から車に乗り込む。
途中でレッスン場近くの外苑入口付近を通り過ぎる。
この季節…外苑のイチョウ並木はきれいに色づいているだろう。
今度、あずささんを誘って歩いてみるのもいいかもしれない。

車からの景色が、次第に俺を仕事モードに切り替えてくれていた。
でも同時に、あずささんの家ですごしたことがとても俺を元気付けてくれたような気がしていた。
(…プロデューサーの俺が、癒されるなんてなあ…)
ちょっと苦笑いをしつつ、車の窓を開ける。
もう冬の風であったが、その寒さが心地よかった。


−終−





おまけ


「おはようございます」
カードリーダを通してオフィスに入ると声をかけられた。
小鳥さんだった。
「おはようございます。お早いですね」
「プロデューサーさんこそ、昨晩も遅かったのに今日も早いですね」
そう言って、俺をじっと見つめる。
「?」
「…プロデューサーさん、昨日、なにかありました?」
「…っ!」
いきなり、なんてことを訊いてくるんだ。
「何かあったって、そりゃ、仕事で大変な目に遭って…これから書類作らなきゃなんないんだよね」
流れるように嘘が出る俺の口八丁ぶりがこのときばかりは頼みだ。
「そうですか」
会話の中身にはなんら興味なさそうに、俺の顔を見つめてきている。
「なんかついてます?」
顔をさすってみたりするが、パンくずがついているわけでもない。
「…はい、言うならば、ついているというか、憑き物が落ちたというか…とても、すがすがしくみえます」
「……」
それはどういう意味なんだろう。
普段はギラギラしているとでもいうのだろうか。
俺がいぶかしげな表情を作っていると、さあっと小鳥さんの顔が紅潮した。
「あっ、その、すみません。差し出がましいことを…。そうですよね、プロデューサーさんもその、オトナですから、そういうコトもありますよね」
「そういうコトって…」
ふと、昨晩の夢の内容を思い出した。
よく覚えていないのだが、一瞬一瞬の状況を思い出す。
誰か隣で寝ていた人の寝巻きの胸元をはいで顔を埋め、抱き合いながら再び眠りに落ちていく夢。
夢。
夢?
夢だよな?
俺の体温が下がっていく。血の気が引いていく。
「あ、あの…プロデューサーさん、すみません…ほんと、私、そういう配慮がなくて…」
どうやら俺が怖い表情をしているらしく、涙目になって小鳥さんが謝る。
俺はそれに気づくこともなく、昨晩の夢の内容の全貌を思い出そうと、そして、一番これが重要なのだが――
(もしかして、俺はとんでもないことをやらかしてしまったんじゃないだろうな?)
それが、ほんとうに夢であったかどうか思い出そうとしていた。


−ほんとうに終わり−


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