春香、新曲に挑む


春香は悩んでいた。
手には「色っぽく!」「悩ましげに!!」などと数多くの書き込みがなされた譜面。
もうすりきれて端の辺りにほころびが出ている。

「エージェント夜を往く」

今度の春香の新曲である。
曲テープと譜面を渡され、ここ数日レッスンを続けているのだが、なかなかうまくいっていないのである。
(悩むのは性に合わないとわかっているんだけど…難しいですよ、この曲…)
自分でも珍しいと思いながらため息をつく。
歌うのは好き。それはもちろん変わらない。
でも、ちゃんと歌えている気がしない。

原因は春香自身がも理解していた。
歌詞である。
「情熱…快楽(けらく)の…解放…待ち望む
 そうよ 乱れる悦びを…」
口に出して呟く。
春香の細く薄い唇から漏れる言葉、それ自体は刺激的な響きを含んでいるが、なにかが足りない。

正直、春香には歌詞の意味がピンとこないのだ。
ピンとこないから、棒読みならぬ棒歌いになってしまう。


春香の新曲と聞いて様子を見に来ていた楽曲スタッフや芸能記者たちも、休憩となるとこれ幸いとばかりに退散してしまっていた。
今スタジオには春香一人が残されているだけである。

(こんなときにプロデューサーさんはいないんだものなあ…)
お門違いとはわかっているのだが、ついプロデューサーへの恨み言が頭をよぎる。
そもそもこの曲を用意したのはプロデューサーである。
それなのに今日のレッスンには顔を出してない。
さっきメールを送ったら、別件の仕事の営業とかで戻りが遅れるなんて返事が返ってきた。
(私には無理ですよ…むずかしいです…)

録音室のガラスからコツコツとノックされた。
顔を上げると律子がウィンクをしている。
「あっ、律子さん」
指でくいくいとスタジオを指している。
春香はうなずいてスタジオの中に律子を招いた。
「ご無沙汰ね、春香」
「お久しぶりです、律子さん!」
律子は前に一度一緒に仕事をしてから仲良しになり、メールや電話で色々相談事を聞いてもらっている“頼れる先輩”だ。
とはいえ、実際に顔をあわせるのは前回のCDでの仕事以来だった。
「だいぶ煮詰まっているみたいじゃない」
「は、はい…実は…」
春香は譜面を律子に見せ、自分がなかなかうまく歌えないことを伝えた。

「ふ〜ん、エージェント夜を往く…ね。いい歌じゃない」
「は、はい。曲とかはすごくかっこよくて、踊りもすごく素敵で、絶対盛り上がると思うんですけど…」
「その名はエージェント♪」
譜面に目を落としていた律子が韻を踏む。
それだけで春香はびくっと背筋が伸びてしまう。
「うわ…律子さん、いまのかっこよすぎですよ!」
「んん?そう?」
「そうですよ!私、なんだかそういった感情を込めるのが苦手で…」
「んー、春香も大丈夫だと思うよ。いやむしろ春香にこそ似合うかも」
「えっ…な、なんでですか?」
律子は譜面から顔を上げると人差し指で春香の額を小突いた。
「イメージよ」
「イメージ…ですか?」
「そう、イメージ。この歌詞の状況をイメージするの」
春香は譜面を戻してもらい、もう一度歌詞を眺めた。
隣に椅子を持ってきたた律子が横からのぞきこむ。
「色っぽく…と言われても、なにがどう色っぽいのか、イメージ湧かないでしょう?」
「は、はい」
「だから、状況を設定するの。春香、あなたは恋に焦がれる女性…」
いつの間にか律子の顔が春香の横に並んでいた。
「恋に…」
一瞬ある想像をしてしまい顔を高潮させてしまう。
「あら?思い当たるコトでもあるのかのしら。まあいいわ。
 …春香は誰かにさらわれたいと思っている。その人に身も心もめちゃくちゃにされたいと思っている」
律子はますます春香に顔を近づけ、その声は耳元に吹きかけるようにささやく。
「え、ええええ?」
春香の顔がますます赤らむ。
しかし視線は譜面から上げられない。
なんとなく、歌詞と自分の鼓動があわさってきた気がする。
「春香、あなたは誰かを待っている。貴方をさらって優しく激しく…シてくれる誰かを…」
「…………」
耳元まで高潮している春香の耳たぶに、律子はやさしく唇を這わせた。
ぴくと春香の肩だけ上下する。
「そう、貴方は待っている…プロデューサーを…」

ぼかあああん!
実際は春香が椅子を倒して立ち上がっただけなのだが、まるで爆発音のような音がスタジオに響いた。
「り、り、律子さんっっっ」
「あれ?違った?」
「ち、ち、ちちち違いますッ!プロデューサーさんとは、そんなこと、ありません!」
「はいはい、わかってるわかってる、だからあくまでイメージだってこれ」
「だからイメージでもプロデューサーさんとは違うんですっっっ」
むきになる春香から逃げるように律子は笑いながら席を立つ。
またねーと言い残すとスタコラサッサとスタジオから出て行ってしまった。

(まったくもう…からかいに来ただけなんて…ひどいなあ…)
とっちらかってしまったスタジオを片付けながら春香はひとりごちた。
しかし、さっき、律子がささやいていたイメージが脳裏から離れない。

 −その名はエージェント 恋と欲望 もてあそぶ詐欺師

(恋と欲望とかはともかく、プロデューサーさんは確かに詐欺師っぽいときあるな…。
この前の京都ロケだって、簡単だって言ってたのになんだかハプニングぽいことさせるし…)
(大体ドッキリとかいやですからねって最初に言っておいたのに、朝に寝顔の収録とかやるんだもの…)
譜面を台にもどし、発声練習をしてみる。
長時間の練習で声を出してきたけれど、張りはなくなっていない。
むしろさっき律子に大声を出したから通りがよくなったくらいだ。
(でも、京都のときのプロデューサーさんは優しかったな。一日中一緒に京都回れたのも楽しかったし、宿も一緒だったのも…)

隣室だっただけなのに、なんだか無性にドキドキして眠れなかったことを思い出していた。

 −眠れない夜 この身を苛む煩悩

(もし今扉がノックされて、プロデューサーさんが『入れてくれ』って言われたらどうしよう…。
って、そんなバカなこと思っていたんだっけ…結局に、入れてくれどころか勝手に入られちゃったんだけど…)

くすりと自分で自分の妄想に笑ってしまった。
そして、それで。それで、


“ピースがはまった”


すうと息を吸い込む。

 −もっと 高めて果てなく 心の奥まで
  貴方だけが使える テクニックで
  溶かしつくして

(プロデューサーさんはすごい。いろんなお仕事を持ってきてくれる…。
私がやりたいなーって思っていたライブとか、PVとか、ラジオとか…。
一緒にお仕事していると、どんどん自分の可能性が拡がっていく感じ…)

律子と入れ違いに休憩を終えたスタッフが戻ってきていた。
春香は気づかない。いや、もう春香に周囲は関係ない。

春香は歌っていた。妖しく、艶かしく、そして力強く。
自然と振りの手が動いている。

 −貴方に 委ねる 秘密の うちわけ
  情熱 快楽の 解放 待ち望む
  そうよ 乱れる悦びを

(オーディションの前に必ずかけてくれる言葉。
いつの間にか、私はプロデューサーさんの期待に応えたいと思っている…。
プロデューサーさんと一緒に、よろこびを感じたい…)

スタッフたちがぽかんとした表情で、スタジオの春香を見つめている。
さきほどの棒歌いとは見違えている春香の表情。
これが本当に16の高校一年生のものなのか。
春香の視線がスタッフに注がれる。
全員が全員、胸の中をかき回されるような熱い、卑猥な、狂おしいものを感じてしまう。
しかし春香は誰を見ているわけではない。ただひたすらに歌の世界に没入している。


 −本能 渦巻く最中に 墜ちてくトキメキ
  今宵だけの夢 

(プロデューサーさん…このまま、ずうっと、一緒に、お仕事とか…いつまでも一緒にいられればいいのに…)

「お、春香やってるな」
録音室にプロデューサーが現れた。
スタッフたちは気づかない。
プロデューサーは春香の歌う表情を見て、満足そうにニヤリと笑う。
(よし、この調子ならヒット間違いなしだ!)

 −踊るわ 激しく 望みの 限り

(…ってプロデューサーさん!?わあああああ!)

視線がプロデューサーと交差した瞬間、魔法が解けた。
なぜか足元に何もないスタジオで春香はすってーんとしりもちをつく。
「は、春香!」
あわててプロデューサーがスタジオ内に入ってきた。
「ど、どうした、怪我ないか?」
「い、いえ、あ、いや、はい、怪我なんてありません…き、きゃあああああああ!」
そしてなぜか突き飛ばされるプロデューサー。
「ど、どうした?俺なんか顔についてる?」
ぽかんとしている録音室のスタッフに顔を見せるプロデューサー。
全員首を横に振る。
「ど、どうした春香。なにかあったのか」
「い、いえ、なんでもありません!なんでもないんです!プロデューサーさんはなんにもしなかったんです!」
「?????」

春香の顔はまたしても耳まで真っ赤になっていた。
先ほどまでの色っぽい表情とはうってかわった、ごく普通の16歳の少女の顔。

…この一週間後、春香は新曲録音の作業に入り、一発で成功を収める。
ただし、春香のたっての頼みでその録音室にプロデューサーの同席は禁止され、プロデューサーはしばらく本気で悩んだという。

−グッドコミュニケーション?−


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