楽屋とジャケットとアイドル


今日は地方の市民ホールでのライブイベントである。
春香の住んでいるところからは、案外近いということもあって、まだデビューから日も浅い割には、チケットのはけ具合は上々であった。

俺と春香は車を降りると、楽屋に向かう。
市民ホールゆえ、そうそうスペースに余裕があるわけでもなく。
俺と春香が同じ楽屋。バックのバンドメンバーには別の楽屋が割り当てられた。

…俺は別段楽屋で何かするわけでもない。休憩室代わりかつ荷物置き場に使うだけである。

俺はホールの舞台感覚を掴んでもらうべく、春香を先にジャージに着替えさせると、リハーサルに向かわせた。

その後、一人楽屋で荷物の整理をする。
幾多のダンボールを開いて小物関係を出したりまとめたりしている中で、ふと化粧台に目をやった。

春香のスポーツバッグが目に入る。
あわててジャージに着替えたのだろうか、かばんの中身は開きっぱなしで、私服のシャツがジッパーから顔をのぞかせている。
「……」
ため息をついた。
アイドルはもちろん、芸能人ともなれば、他の出演者との共演も多い。
楽屋内での荷物の整理整頓は、基本中の基本だ。
春香は几帳面な方だとは思うが、ついこんなところの油断が出てくるところがまだ新人ぽいところであろう。

楽屋の扉がノックされた。
「プロデューサーさーん、春香ですー、いますかぁ?」
「ああ、いるよ。鍵なんてかけてないよ」
「あっ、はい…」
リハを終えた春香が楽屋に入ってきた。
「もどりました〜」
「ああ、お帰り。リハ見れなくてごめんよ。後で最後の通しで確認するから。動きはつかめた?」
「はい、サビ部分の振りの確認中心でやりましたから。後でプロデューサーさんにも、チェックお願いします」
大分動いたのだろうか、タオルで汗を拭っている。
狭い楽屋内に少女の熱気が持ち込まれる。
「……」
バッグのことをつい言いそびれるような、奇妙な雰囲気だった。
春香がジャージの上着を脱いで、シャツ一枚になる。
汗を含んだシャツはぴったりと体にはりついていた。
下着のラインがプロデューサーに飛び込んでくる。
「!」
ついかあっと紅潮してしまうプロデューサーに気づかず、春香はバッグの中からスポーツドリンクを取ると飲み始めた。
こくこくと形のよい喉が動く。
吸血鬼が見たら辛抱たまらなくなりそうなシチュエーションである。
およそ吸血種でもないプロデューサーまでも、そのうなじに吸い付きたい衝動に駆られてしまった。
「は、春香…その…」
「はい?」
服をだな、と言いかけたところで、胸ポケの携帯が鳴った。
「…はい。俺です。…ああ……ああ?照明?それあれだろ?4トンの中に入ってたやつだろ?
…ああ、わかった、行く行く。今からそっち行くから。はい、はーい」
ジャケットの上着を脱いで空いている化粧台の上に投げ置く。
「ちょっと行ってくる。もうすぐメイクさんが来るから、そのときにまたな」
「あっ…は、はい!」

一人残された春香はさっきのリハーサルのことを思い返していた。
舞台は小さいながらも、多くの席からはっきりと舞台が見える、いいホールであることがわかった。
とりあえず全編確認も無事に終わったので、後はバックのスタッフが最後のホールのセッティングをし、
春香のメイクと舞台衣装を合わせて最終確認をするだけである。

シャツ姿でしばらく気が抜けていた春香は、ふと横に投げ捨てられていたプロデューサーのジャケットに気がついた。

「こんな、投げ捨てたら皺になっちゃうのに…」
プロデューサーさんは、わたしに整理整頓とか厳しく言うけれど、自分のことを棚にあげていると思う。
無精ヒゲも、剃ってくるととってもかっこいいのに。
ネクタイもきちっと締めればとってもステキなのに。

しょうがないなあ、なんて独り言を言いながらジャケットを手に取る。
ついそのまま広げると、春香の想像以上に大きさを感じられた。
それと同時に、どことなく漂ってくる男臭さ。
(なんか、プロデューサーさんの匂いがする…)
なんだか嬉しくなってしまい、ジャケットを胸に抱え込んだ。
プロデューサーの体臭のようなものが春香を包む。
(うわ、おとこくっさ〜)
そう思いつつも、けして不快には思わなかった。
なぜか、とても、この匂いを大事にしたいと思う気持ちが湧きあがっていた。
そんな気持ちのまま、ついジャケットに袖を通してしまう。

化粧台の前の鏡に向かってポーズ…プロデューサーのものまねの姿をとってみる。
「よし、今日はダンスのレッスンだ。…春香行くぞ!」
「はい!プロデューサーさん!」
プロデューサーの声まねでレッスンスタートの合図をとった春香は、自分の声で返事をし、ダンスのレッスンを始める。
「上手だな!いいぞ春香!」
「はい!プロデューサーさんの教えがわかりやすいから、私も楽しいです!」
プロデューサーの物まねと、芝居がかった自分の演技。
プロデューサーのジャケットを着て、春香が春香を褒める。

「すごいよ春香…キミは本当に、アイドルになるために生まれてきたような子だ…」
プロデューサーパートの物まねがだんだんとノッてきた。
ヅカっぽく腰に左手を当て、右手を大きく左から右に流しながら春香を賞賛する。
「そ、そんなことないです…プロデューサーさん…」
春香役の春香はまさに乙女のような嬉しさのこもる照れ笑いを返す。
「でも、本当は…僕は、キミを…僕だけのアイドルにしたいんだッ」
そう言って強引に背中に手を回し抱え込むような格好をする。
「そ、そんな!私は、トップアイドルになるまでは…誰のものにも…」
「いいや、キミがいけないんだ…僕をこんなに狂おしくさせるのは…」
プロデューサー役の春香がフッとキザな笑みを返す。
それを受けて春香役の春香がぽっと頬を染め、視線を外す。
「あの、プロデューサーさん……わたし…初めてだから…やさしく…とかいってきゃー!」

袖をばたばたさせてひとりではしゃいでしまう。
その絵が化粧台の鏡に映っているのを見て、はっと我に返った。
(な、なにやっているんだか…)
さっき飲んでいたスポーツドリンクをもう一度飲んで、おとなしく椅子に腰を落とす。
体を動かした後の疲労感とジャケットの暖かさに誘われて、春香の瞼がだんだんと落ちていく…。


「春香、そろそろさいしゅ…っ!?」
楽屋に戻ってきた俺は目を疑った。
化粧台に腕枕をして眠ってしまっている春香。
それはいいが…なぜ、俺の上着を?
小さい春香が男物の上着を着ている違和感。
それがたとえようもなく可愛らしく、素直に寝入っている姿がまたいとおしい。
「…春香、春香」
「ふぁ」
つい、誘惑に負けて頭をなでた。
艶やかで滑らかな髪の毛の感触が心地よかった。
「本番前に寝るとは、たいした度胸だよ」
「あっ、プロデューサーさん…わっ、わたし!」
春香はがばっと跳ね起きるとあわてて首を左右に振る。
「寒かったんだろ?悪いな。ブランケットか何か用意しておくんだった」
俺は断定する口調で言った。
「あ…は、はい…」
気圧されて、春香がうなずく。
「せっかくの顔がむくんじゃうぞ。顔を洗ってきなさい。もうすぐメイクさんが来るよ」
「は、はい!すみません」
そのまま楽屋を出ようとして…ジャケットを脱ぐと俺に手渡す。
「勝手に着ちゃって…すみませんでした」
「い、いや。いいけど…汗くさかっただろ?」
「そんなことないです!プロデューサーさんの匂いがして、とっても…」
「とっても…?」
「あ、いえ、何でもありません!顔洗ってきます!」

再び、楽屋には俺だけが残された。
春香が着ていた、俺の上着。
言葉にするとなんて不思議なんだ。そんな状況、ありえるのか?

袖を通すと、なんとなく春香の体温と香りを感じる。
胸の奥の、心臓の鼓動が早くなる。
何なんだろう、何で、こんなに、胸が高鳴るのだろう。

楽屋を出ると、廊下は各種準備でおおわらわのスタッフでいっぱいだった。
そうだ。これから春香のステージが始まるのだ。
何を俺は気を抜いていたのだろう。
本番までにまだチェックしなければいけない項目はたくさんある。
今は、目の前の仕事に集中だ。

と。
「プロデューサーさーん!」
正面から春香が小走りにやってくる。
「ば、ここで走ると…!」
「う、うわわわわっ!」
つんのめって春香が盛大に転んでしまう。
駆け寄って春香の体を起こしてやる。
「大丈夫か!どこかすりむいてないか!」
「いたたた…大丈夫です。受身はバッチリです!」
泣き笑いの春香が思いもがけない距離にいる。
その至近距離に、また一つ俺の心臓がどくん!と鳴る。
「……」
俺は両手で春香の頬を包んだ。そのまま力を入れてぐりぐりと締め上げる。
「うー!うー!」
思い切りへんな顔になった春香がジタバタと抵抗するが、俺は力を緩めない。
「こんなせまい廊下で走ったら、危ないだろが」
「…うー」
なみだ目になった春香を見て、力を緩めた。
そのまま手をとって起こす。
いつのまにか周囲にスタッフが集まっていた。
「さあ、解散解散。みんな持ち場があるだろ!メイクさんはこの転び虫をスーパーアイドルにチェンジさせてやって!」
和やかな笑いと共にあわただしさが戻る。
思い切り変な顔をスタッフに見せつけられた春香は最初ぶーたれていたが、すぐに機嫌を直したようだ。

胸の携帯が鳴る。
相変わらず直前になっての変更事項は山盛りだ。
俺は矢継ぎ早に指示を飛ばしながら確信していた。
大丈夫。今日のコンサートは成功する。
今のこの胸の高鳴りは、成功の期待ということにしておこう。

開場まで、あと1時間。


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